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第1ステージ

  • 奥州こがれの記 より 加藤豊仭書 2010年5月31日
    S1-006

    平安朝の貴族・文人が奥州ーみちのおく・陸奥・おくーに対していかに あこがれていたかを理解せねばかれらの詩的気分が十分にわかったとはいえない。

    サイズ:818mm×573mm

  • 風流の初めや奥の田植歌(芭蕉) 加藤豊仭書 2010年5月31日
    S1-005

    まことに、晴天がとどろくようなくではないか。 旧暦四月の陽のあつさや、新緑のふかまりまで感じさせるが、 同時に、芭蕉の文学的決心までがこめられているらしい。 歌の名所の奥州で自分の蕉風を確立させたい意気込みが “風流の初め”ということばにこめられていて、それと、 奥州の田植歌という鄙びとという質の異なるものとが、 たかだかと対応させられているのである。

  • 大いなる会津人 加藤豊仭書 2010年5月31日
    S1-002

    九世紀という、遠い時代の会津に、慧日寺のような巨大な私寺が存在したというのだけでも、愉快ではないか。 その上、徳一が尋常な学僧ではなかった。“会津徳一”などとよばれて、平安初期の仏教界で畏れられる存在だった。 さらには、日本史上、最大の論争家でもあった。

    サイズ:818mm×573mm

  • 斗南 加藤豊仭書 2010年5月31日
    S1-001

    明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処すようにして(シベリア流刑を思わせる) 下北半島にやり、斗南藩とした。この地は三万石といわれたが、実質は七千石程度で、 そういう寒冷の火山灰地に一万四千二百八十六人が移った。 藩士たちのくらしは赤貧というようななまやさしいものではなかった。 あたらしい藩主の容大(かたはる)(移住のときは生後一年四ヶ月)自身、 衣服にシラミがわくという状態で、他は文字どおり草根木皮を食べた。 …歴史のなかで、都市一つがこんな目に遭ったのは会津若松市しかない。

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